作成者別アーカイブ: 前野 拓道

Food Security

「昆虫を食べる時代がやってくるらしい」

昆虫は、貴重なタンパク源である、と推薦する学者が、「だって、刺身だって、最初は変な感じだったでしょ」と、昆虫と刺身を同列に扱っていた。フランスのエスカルゴ、長野のイナゴ、確かに旨い、感じがする。要は料理方法の問題か。中国のゴキブリ養殖場から、大量のゴキブリが逃げたらしいが、漢方薬とはいえ、ゴキブリとなると、ハードルが高い。

「世界中で、蜂がバタバタ死んでいる」

アメリカでは、養蜂家が大騒ぎし、農薬のせいか、遺伝子組み換えのせいか、学者や化学メーカーを巻き込んで、議論紛糾している。蜂は、遠くに飛んでいっても、仲間と連絡し合い、やがて巣に戻るという、優れたセンサーを持っているが、これが破壊されたらしい。欧州では、原因と疑われる農薬の使用を禁止した。

「食い物の恨み」

昔、150年以上も前のこと、アイルランドの芋が疫病にかかって食糧難になったとき、イギリスは助けるどころか、アイルランドの少ない農産物を強制的に奪ってしまった。ために、百万人を超えるアイルランド人が飢えて死んだ。そのことを、約150年経て、当時のブレア首相は、アイルランド人に謝罪した。

「いざとなると、ジェントルマンも、奪ってしまう」

food security論議のいちばん深い問題はなにか。30年後の世界の人口は90億人になると、予想されていることである。9B population worldだ。食料だけの問題ではない。Water crisisも懸念されている。世界では、水資源地の買収が広がっている。日本でも、中国の資産家が「北海道の山を買った」とか、「山梨の水源を買った」とか、ニュースになっている。

「水も空気もただじゃない、殺生な話」

突然に90億人になるわけではない。たとえば、100万人都市を想像みるといい。新たに100万人都市が、100個できて、1億人分である。地球のラッシュアワー状態になる。食料が足りない、水が足りない、資源が足りない、そういう不足論ばかりじゃない。そこでは、ゴミ問題も大変だ。ゴミや下水処理が整備されないと、予期せぬdisease pandemicsの恐れがあると、指摘されている。伝染病は、グローバル時代には、あっという間に広がる。つまり、問題がlocal problemであっても、global problemに転換されるのである。

「やっぱり、牛はうまいでえ、なあ、肉はビーフがええで」

大阪の人は、豚や鶏より牛を好む。世界では、牛をたくさん食べる国、ブタをたくさん食べる国、鶏をたくさん食べる国、魚をたくさん食べる国、いろいろである。統計データをみると、世界の牛肉生産料は、年間およそ60百万トンで、米国人が2割食べている。1人当たりの消費量では、南米のウルグアイ人は年間60キロくらい食べている。ちなみに日本人は10キロである。

「豚だって、負けてはいない」

世界の豚肉生産量は、年間110百万トンで、そのうちの半分を中国人が食べている。一人当たりの消費量では、香港の人が年間70キロ食べている。日本人は20キロくらい。鶏肉は、78百万トンが生産され、米中で3割食べられており、一人当たりでは、UAEとクウェートが60キロくらい食べている。日本人は15キロ。

「うまいビーフには、ビールを飲ませる」

牛一頭はだいたい700キロの重量だが、年間の餌はおよそ6トンである。そのうち、半分くらいが、大豆やコーンなどの穀物だ。牛の餌も、豚の餌も、馬鹿にならない。日本ではビールまで飲ませている。「酔わせてどうする気なの」、と牛は質問しないが、いい霜降り肉ができるという。フランスの大統領が、その昔、鳥の目をつぶして、生きたままワイン漬けにした料理を食べたらしいが、人間は食にはうるさい。

世界には、犬やネコを食べる人たちがいる。韓国では、犬は貴重な食料であり、年間200万匹くらい食べられている。他方、犬はペットとして、世界中で飼われているが、売れ残りは殺されており、米国では3百万匹くらい、日本では家庭から捨てられた犬猫合計で18万から30万匹くらいが、年間に殺されているという。日本の金持ちの中には、犬にケーキや高級ビーフを食べさせる人もいて、一般庶民は、「あの犬になりたい」と思ったとか。

「いいかげんにせんと、いかんでえ」

隣の犬のソクラテスに聞いてみたら、牛と豚と鶏と犬と猫・・・が、アニマル世界のG20を開催したところ、「人間世界から逃げよう」ということで一致した、という話であった。食べたり、生ませたり、ペットにしたり、捨てたり、殺したり、高級食材を食べさせたり、人間という動物は、ほかの動物からみれば、訳の分からない、恐ろしい生き物なのだ、そうだ。

「今日は、いい餌が入っているよ、特売、特売」

統計数字をみれば、世界の大豆の年間生産量は、300百万トン、コーンの年間生産量は900百万トンである。90億人分としては、ぎりぎりだが、小麦の700百万トン、米の500百万トンなど、ほかの農作物をあわせれば、なんとかなるだろう。

「たまには、ビーフやソーセージも食べないなあ」

ビーフは記念日だけ、という時代がやってくる。タンパク源は「大豆を食べなさい」と言われる。「なにが困るのか」、と日本人は思うかもしれないが、大豆を「うまい、うまい」と食べているのは、日本人くらいである。大豆を、豆腐や納豆のようなすばらしい食材に転換している。もちろん、中国もできるが、日本の豆腐は天下一品である、と思っている。あとは南米はじめとする、まめ料理の国くらいである。

「コーンもうまい」

日本では、コーンは、焼いてよし、湯がいてよし、塩やバターに醤油で、香ばしいこと、うまいこと、と思う。コーンはアフリカや南米でも食べられるが、それほど、旨いと思っているのは、今のところは、日本人くらいだろうが、食べてみれば、世界中の人が「うまい、うまい」というに違いない。Food senseも変わっていく時代になってきた。

Civic Engagement

Civic engagementという言葉がある。普通の若者が、世界のあちこちを見て、発言し、影響を与えている。彼らは、法制度も税制も勉強したわけではないが、原発の専門家ではないが、道路行政を考えた事もないが、「なんだか、これでは駄目なんじゃないの」と直感しているようだ。

「世界をみている若者の目」

イギリスの田舎には、ほとんど信号がなく、代わりのランドアバウト、というのをみて、これならばエネルギーを節約できるのではないか、とみる。フランスとかイタリアのにぎわう市場をみて、これなら、商店街がつぶれないかも、とみる。そこにはいつも、利害にそまっていない、ストレートな目線がある。

「なんで、借金が1000兆円なの」

若者たちは詳細を勉強したわけではないが、日本の借金を聞いて、「なんか、やばいんじゃないの」と感じる。人口減少だと、これまでの経済システムを変えざるを得ないのではないのか、と推測する。

「タックスヘブンって、インチキじゃん」

若者たちは、国際法も刑法も勉強していないが、一部のrich peopleとbig companyだけが、許される世界というのは、おかしな治外法権ってことなのか、と感じとる。シャドーバンクについて勉強していなくても、「なんだ、経済ってギャンプルじゃない」と、パッと認識できる柔軟な頭をもつ。

「しかし、minor voiceである」

若者のfundamental doubtも、就職すれば、忘却される。仕事の勉強ばかりになる。証券を売るとか、市場シェアをのばすとか、会計処理するとか、契約書をつくるとか、いつの間にか、部分観に拘泥する日々、生活の奴隷に落ちる。会社にしがみつく精神構造は、健康的な批判精神を萎えさせる。

「これだから、市民社会はむずかしい」

しかし、Economic weaponの力も、military weaponの力も、結局、なにも変えられない、ということは、20世紀が証明済みである。2つの力による解決方法には、もう限界はみえた。むしろ、メリットよりデメリットのほうが大きい。20世紀から21世紀初頭で、いやというほど暴力を味わった。まだ続いている。ヒロシマとナガサキの庶民数十万人を焼き殺した核爆弾は、在庫量が増え続けている。

「つまり、権力側からのチェンジはむずかしい」

国家レベルの問題と憎悪の連鎖は、一般市民を巻き込むwar on terrorを生み出した。アメリカでは電車に乗るのさえ「怖い」と感じるときがある、という。普通の市民が、suicide bombを心配する日々は、異常事態だ。国レベルの対応は、街や地下鉄のあちらこちらに、カメラを設置する監視防犯システムである。しかし、それでは真の解決にはほど遠い。もっとダイナミックなcivic networkによるcivic collaborationが必要な時代である。

System of Systems

「グローバルスタンダードの視座に立てない、国への愛着」

National system of global systemsである。アメリカといえども、それは同じであり、世界ナンバーワンの国力であるがゆえに、影響も大きい。アメリカが行き過ぎたpro-national主義の態度では、global sustainabilityは成り立たない。いずれprice of arroganceの請求書は必ずくる。アメリカにつづく中国でもインドでも、それは同じ。自国の経済優先、Economic weightが勝つ。事情はよくわかる。日本も同じで、選択はいつも経済優先だ。

「驕れるものは久しからず」

アメリカの山火事やmassive floodは前代未聞のサイズ、中国の干ばつや豪雨、欧州や日本でも、かつてない自然災害に見舞われている。誰もが、何かが狂い始めていると、気づいているが、経済最優先の前には、すべて後回しである。

「金の周波数ばかりじゃなくて、ちがうリズム、新しい曲想は出てこないのか」

知の結集が足りないのか。知はアメリカに集まっている。アメリカは、金と暴力だけに依存していない。World-class universitiesはアメリカにある。ソ連崩壊時には、優秀なロシア人が米国に大量移民した。中国の若者は毎年、1970年代にも数千人レベルで送られていたし、いまでは数万人レベルだ。シカゴ大学でも、ハーバード大学でも中国人がたくさんいる。グルジアの大統領はニューヨーク大学で学んだ。

「zero corruption 99%、という一大広告をニューヨークタイムズにうった」

グルジアの大統領は本気だった。警察官をいっせいに首にしてしまった。役人を素人の若者に一新してしまった。ロシア的なものを一掃した、というのだ。車で走っていたら、ブッシュストリート、というものまであった。ロシアシステムからアメリカシステムへの変換。経済効果は大きい。アメリカ式ビジネスの日本人にとっても、話がしやすい。

「アメリカシステムを支えているのは、アメリカファン」

アフガニスタンやウズベキスタンなどの中央アジアの権力者の子供たちは、毎年アメリカで6週間の研修コースを受けている。アメリカの正当性を話しかける。アメリカファンができる。日本の子供たちもマックを食べて、大人になってもマックファンだ。ファンをつくるテクニック。「それが嫌だ」という人もいるらしいが、ともかくも、話せる間柄にはなるようだ。アメリカのシステム。

他方、「それが嫌だ」というところから、新しいシステムが生まれる可能性もある。アンチを掲げたシステムもまた、パワーを生む。だが世界は,もう一段上のスタンダードの、新しいシステムを求めている。

Demographic Card

「ChinaとIndia、あわせてChindiaと呼ばれている」

中国とインドには共通したカードがある。それがDemographic cardだ。人口パワー。2つ合わせると、25億人くらいになる。多数決の民主主義の時代、数は力だ。インドは、中国とともに、multi-polarのひとつであり、中国とインドをあわせて、Chindiaと呼ばれて、この2国は、two Asian giantsと、みなされている。しかし、インドのポジションは、アメリカとも中国とも、少々異なる。

「インドは、カレーの香りよ」

International sceneでの、インドの印象は違う。米中のようなマイナスイメージはないようだ。むしろGandhi legacy、international respectが残っている、ような気がする。日本においても、古くは仏教誕生の地としてリスペクトされ、近くは戦後のパル判事の国際的感覚への尊敬の念がある。ガンジースマイル、穏健で非暴力でありながら、じっくりと長い時間軸ですすむ。米中とは異なるsense of timeが感じられる。悠久なガンジスの流れに身を浸すおかげだろうか。シャワーでぱっぱとやる日常とは違う。

「食べるものが違うから、性格も違う」

もしや、食文化の違いか。インド人の多くはベジタリアンだ。牛を食べない。牛は神様なのだ。のんびりと道をのそのそ歩く牛が、インドにはたくさんいる。もしも、牛に生まれるなら、インドに限る。血の滴るビーフをたべるアメリカ人、ポークを詰め込んだソーセージにビールのドイツ人、テーブルまで食べるといわれるほどに、多彩な食通の中国人、multi-polarの国のなかで、インドの食文化はかなり違う。

「話せばわかる、安心感が、ある人とない人、の差は大きい」

アメリカ人も中国人も、自己主張が強い環境に生きているから、議論好きだと思えば、どうということはないが、それが裏目に出ると、一方的な話し振りに聞こえることがある。その点、日本人は、相手の話に耳を傾ける傾向にあるが、キレると問答無用の上位下達になるきらいがあり、特に年寄りは頑なで、偏屈だ。

「その点、インド人は巻いている」

インド人の英語は、巻き舌でわかりにくい、という人が多いが、なれてくると、あれはあれで、耳に心地がいいリズム感だ、という人もいる。おそらく、インド人には、「話せばわかる」的な安心感があるのだろう。それは非暴力の勝利の歴史、ガンジー効果である。日本の神風、特攻隊的な精神風土とは180度違う。

実際面において、イギリスの植民地に甘んじたインド人は、英語が流暢だ。あの巻き舌は、いえば、クイーンズイングリッシュの流派だ。イギリスにもアメリカにも多くのインド人が住んでいる。数百万人オーダーだ。ちなみに日本には2万人くらいのインド人が住んでいる。シリコンバレーでのインド人の活躍は見事だ。数学的天才ぶりは、ゼロを発見した民族のDNAか。その後のバンガロールの発展にもつながり、いまでも続いている。インド人のVantage positionだ。

「でも、カースト制度は時代遅れなんじゃないの」

一歩、インド国内に入れば、十いくつの民族がおり、二十以上の言語を話す多民族国家だ。地域によって、type of cultureもforms of behaviorも違う。ニューデリーなどの北側と、チェンナイのような南側では、風情がまったく違う。法律もnational lawよりもstate lawのほうが強い。カーストシステムの残存は、中国同様、国がひとつにまとまるような話ではないのかもしれない。ガンジーもそれで撃たれた。absence of minority voicesの懸念は、インドにもゼロじゃない。

China is Back

最近では、Arnold is backと、シュワルツェネッガーの俳優復活の記事が出ている。Backというほどの、往年のパワーは感じられないけれど。他方、China is backはパワフルだ。眠れる獅子といわれたSino powerが100年以上の眠りから覚めて、backした。

「中国は、アフリカと仲良し」

中国はエネルギー資源を買いまくっている。経済急成長によって得た金で、世界を買いまくっている。軍隊や受刑者をアフリカに送り、道路などの公共設備をつくっている。欧米に代わり、中国がアフリカの発展を助けている。毎年、Forty-eight African nationsのトップを北京に招き、仲良くやっている。利用し、利用され、踊って歌う。

「金と地位を有する者は、力を行使したくなる」

成り上がりは特にそういう傾向をもつ。共産党の幹部が愛人女性を買いまくって、ロサンゼルスにプール付きの高級住宅をかまえている、そんなニュースがワイドショーをにぎわしている。「羨ましいのか」といえば、どうもそうでもないようだ。大変そうだ。

「金の切れ目が縁の切れ目」

成り上がりの男たちが美女を囲いたがるのは、古来、どこの国でも似たようなものだ。勝利の証。猿山のボス。世界のde facto desires。トルコのハーレム、中国王朝の後宮、日本の大奥・・・、数十人から数百人の女性をひとりじめ。権力者の共通項。ライオンやオットセイと同じ。強者の論理。

「教科書では教えない歴史と生物学、これが人間の原理」

チャイナは、米国に次ぐ巨大な軍事費をつかい、最新兵器を買いまくっている。権力者のワンパターン、アメリカとおなじモデル。米国と中国が世界を牛耳るSino-American duopolyへの転換について、オバマと習が泊まり込みで話し合った。アメリカがユーロと組んでいた時代は、Euro-American duopoly。いまは変化し、欧州はそれどころではない。

「金持ち喧嘩せず、get rich and be quiet」

米中二極の時代は当分ないようだ。そうすると、multi-polarの時代。たとえば、アフガン問題。米軍撤退後のアフガンの安定を担うのは、誰か。Shanghai groupと言われる、近隣諸国の連合体だ。もちろん中国も参加。こうなると、中国のdegree of international leadershipが問われる。

「中国のリーダーシップとはどういうものか」

世界経済は現在、中国がリードしている。日本経済も中国によって支えられている。充実いちじるしい100円ショップは中国製ばかりだ。中国製品が世界を満たしている。にもかかわらず、いつもfragility of Chinese economyがささやかれる。

Litigation Violence

米国市民のなかにも、アサンジやスノーデンを支持する声が多い。国法を犯した人たちを支持するという背景には、法律自体がおかしい、あるいは法律の活用がおかしい、つまり「litigation violenceなのではないか」という声がある。

法律にも光と影があるのか。システム自体の闇が表に出てきているのか。アメリカは法治国家であり、More or less fair system of law enforcement。法律もまた、権力構造のなかのひとつである以上、力関係が及んでいるというのは、matter of course。だから、詩人は法律が嫌いだ。

「法律と犯罪はいたちごっこ」

企業でもコンプライアンスの大合唱。アメリカの法律モデルの輸入である。規則違反者をびしびしやりはじめた。いいことだろう。結果、ますます企業犯罪が増えた。「法律さえ守ればいいのだろう」というレベルに精神が劣化した。Moral transformation。

「ガキンチョの社会」

小賢しい子供のように、法律を盾にとる人が増えた。むかしは、法律を守るのは当たり前のことで、意識にもあがらなかった。むしろ、もっと高いmoral controlが効いていた、気がする。「嘘はどろぼうの始まり」、「年寄りを大切に」していた、気がする。大人の社会があった、気がする。

「結局、法律至上主義モデルの社会は、ハイコスト」

アメリカには輸出できるほどに弁護士がいる。だいたい、弁護士は嫌われている。正義の味方でもなく、法の番人でもなく、法を利用して儲ける人たち、という風に見えるからだ。係争が頻繁にある。勝負は弁護士の力量次第。Litigationに勝てる弁護士を使わなければいけない。

日本の大企業は、全米ベスト3までのlaw firmを使っている。日本の弁護士では国際的な係争に勝てない。この差は小さくない。つまり、法も金だ。マクドナルドコーヒー訴訟や、OJシンプソン訴訟をみると、「なんかおかしいな」と、誰もが思う。米国のlegal frameworkはしっかりしているものの、金がかかる。陪審員制度の悪用。素人に任せるやり方、日本も突然に取り入れた。

「法律が時代についていけない」

ネット犯罪が進み、警察の捜査が追いつかない。犯罪者が警察をおちょくる事態になっている。犯罪も国際化が進み、企業や個人の情報を盗んだり、公的機関へのハッキングがあったり、ハッカーは世界どこからでも押し寄せて、国法を超えている。金融の世界でも、格付けは詐欺か否か、タックスへブンは脱税か否か、ヘッジファンドは金融規制の対象か否か、法律がついていけない事態に陥っている。Law makerの先を行く、new violenceの時代になっている。

Pluralistic Society

「人が集まるところに、エネルギーが生まれる」

移民はアメリカの力の源泉になっている。数百万のインド人はシリコンバレーの発展を支えた。アメリカの国債をやまほど買っているのは、日本であり、最近では中国だ。そういう仕組みになっている。アメリカはPluralistic societyで世界一といえる。常に新陳代謝できている。奴隷としてつれてきたアフリカ人の子孫がいまや大統領。よきアメリカモデルの真骨頂といえるだろう。

「オバマ、がんばれ、躊躇するな、遠慮しないでやったらいい。奴隷の子孫のパワーをみんなが期待している」

Pluralistic societyを支えているのが法制度だ。刑事は犯人に対して、必ず「黙秘権と弁護士を呼ぶ権利」を伝える。マニュアルだ。こういう法律システムが整備された社会でのビジネスは簡単だ。契約書に基づいて進めることができる。Legal literacyがあれば楽勝である。

「法律がない、というような国もある」

法整備が遅れた国では、信頼はone-wayにならざるをえない。相互の信頼が確定されないからだ。途上国のほとんどにおいて、legal mindが乏しい実態があり、そういう国では、契約書は紙切れになりやすい。契約しても意味がない。多少は契約を尊重するにしても、「契約は、変更するのが当たり前」という感覚が基本姿勢になっている。

「契約までが仕事の中心になる欧米、契約後が仕事の中心となるリーガル途上国」

法律や契約概念の弱い国でのビジネスは、契約後のほうが、むしろストレスの連続になる。いつ契約破棄されるか、ひやひや、なのだ。「信頼とは契約を順守することだ」と言っても無駄だ。むしろ、「信頼とは契約を変更できる関係だ」と、いいかえされる。

「多様性を受け入れる社会の前提はルールか」

「郷にいっては郷に従え」、when in Rome do as the Romans doというように、ローカルルールを尊重することが大切である一方、pluralistic societyにおいては、標準となるルールが必要だ。でないと、つまらないことで議論が紛糾して、物事が前に進まない。good pluralistic societyはフェアなルールに支えられる。

Good for America Is Not Good for World

「田舎に若者が増えたよ」

イランの話である。アメリカモデルにならったパーレビ時代に、8割くらいまで落ちた農業自給率が、200%にまで回復した。いまや欧州に輸出している。「アメリカモデルにならったら、都会に人が集まりすぎて、田舎が荒廃したが、脱アメリカで、強制的に若者が田舎に帰らされて、農村部が元気を取り戻した」という話である。De-Americanizationの副産物である。イランに行くと、道路標識はペルシャ語と英語だ。脱アメリカというが、反アメリカという感じはしない。

「大国と小国では、生きる道が違う」

大国と小国における、国の経営方法は同じでいいのか。ソ連崩壊後に石油サービスが止まったキューバはどうしたか。キューバはソ連の石油に依存していた社会であった。ところが突然、ソ連の支援がなくなった。人ごとではない。化石燃料は有限なのだ。キューバが直面したことは、いずれ世界が直面する問題かもしれない。キューバが先立って経験しただけのこと。「肥料も、農薬も、トラクターもなくなった」という状況になった。

「どうやって食っていくのか」

切実な問題に直面したキューバは、なりふりかまわず手を打った。まず、自家菜園を奨励。ベランダは食べ物づくりの場所にかわった。石油系肥料から有機肥料に切り替えた。昔ながらの方法、だけでは無理。農薬がないので、生態系を研究して、虫を生かして虫を退治する方法を採用した。無農薬方式による新しい農業の確立。

「医療の革新には、WHOも驚いた」

医薬品不足に陥った事態に対して、ワクチン開発で対応した。ワクチン開発の研究センターをつくり、世界から研究者を集めた。WHOが「嘘だろう」と疑い、調査団を派遣したところ、WHOを驚かすほどに成功していた。いまではワクチン輸出国になっている。

「医者はストリートにでていく」

病院で患者を待っていた医者を、ストリートに送りだし、デジタルカルテを駆使して、早期発見、早期治療に取り組み、コスト削減効果をあげた。これはde-Americanizationというわけではないが、石油依存型モデルからの脱却の成功事例だ。

「石油はもう古い」

原発は怖い。de-old-modelをどのように進めるか。グローバル社会はいま、新たなモデルを模索している。古いモデルの延長はわかりやすいが、明るい希望がない。だから、アメリカ自体が、de-Americanizationを目指している。

Poor Versus Poor

世の中、Massive inequalityになっている。社会はすでにEqual opportunityではない、ということはサンデル教授のご指摘どおりだ。日本でも経済格差は、当たり前になり、ますます広がっている。おひとり5百万円のクルーズ旅行がシニアにバカ売れする一方で、医療費も払えない老人が食費にも困り、ひっそり家で死んでいく。

日本は、人口減少社会なのに、ホームレス人口は増加しており、最近では女性のホームレスも目に付く。彼らの友達は猫ばかり。いまもむかしも不公平な社会だが、不公平感の摩擦熱はあがるばかりだ。Economic problemがemotional problemになり始めている。

「感情のもつれが原因、という原因の事件が増えている」

人間は感情の動物。恐竜時代は、食うか食われるか。弱肉強食なわけだが、結局、人間社会も同じようなものだ。経済社会ではlopsided dealがまかり通る。global economic hierarchiesがますます拡大している。大企業のトップの年収は30億円レベルだが、日本では大卒でも年収2百万円がごろごろいて、世界には年収が数十ドルという人もたくさんいる。新種のグローバル封建時代だ、という話もある。

人間の金銭的価値の差が、10倍、100倍どころか、1000倍以上になっている。せめても、暖かい人間関係を望むが、これだけ格差となると、関係がおかしくなる。昔の長屋の助け合い的なものが復活すればいいのだが、そうもいかない現実があるようだ。

「フクシマの食材は大丈夫か」

放射能線量計が日立やセイコーなどから続々販売され始めて、「しっかり計測しているから、安心です」とアピールした。この線量計の核となるパーツは特殊な金属結晶だが、米国と旧ソ連でしか製造していないので、日本からの注文が殺到した。安い結晶と高い結晶があり、価格も精度も違う。販売業者から事情を聞いた。

「最初はなかなか、売れなかったのですよ」

「農民も、スーパーも、JAも、市庁や県庁も、はじめは、他人任せで、誰も検査しようという気がなかったのですよ。でも、いまは、アピールのために需要殺到です。ああ、農民のこころもここまでに落ちたか、と悲しくなりました。命をつなぐ食べ物への責任感をいちばん持っているのは農家だと信じていたのですが」、と語っていた。真意はどうであったのだろうか。

「そんなこと言われても」

災害もあり、経済的なシビアさもあり、生きるためには仕方なかったのであろう。だが、危険を感じて出荷しなかった農家もいるわけであり、危険を知りつつ出荷した人のこころが心配だ。だから、「国や県がすべて買い上げて、検査してくれれば」、という声もあったが、実現しなかった。

「ならば、どうしたらよかったのか」

poor versus poorの構図から、rich versus poorへの転換という手もある。昔から、金持ちにおごってもらえ、という学生標語があるが、それだ。東電にクレームしても、電力代の値上げになるが、そもそも原発で利益をあげたのは、東電だけではない。原発に関わった業者は五万とある。たとえば、総合商社はウランなどの資源ビジネスで相当に利益をあげた。そしていま、原油や天然ガスで、空前絶後、昔の10倍以上の利益をあげている。

「検査装置、1台3百万から6百万円、総合商社1社あたり、1,000台ほど寄付してください」

総合商社にかぎらず、原発ビジネスを推進していた企業の多くは、いまは巨大な利益をあげている。このような超優良企業は、社会的貢献にたいへん敏感であるから、フクシマのみならず、放射能問題で困っている人たちは、相談にのってもらえる、かもしれない。

Price of Arrogance

「よきアメリカが死につつある」

ハーバード大の教授が、TEDで「ロビイストたちに牛耳られた政治」を嘆いていた。草創期から、アメリカが目指してきた「名もない庶民による共和制」が、ロビイスト政治にとって替わられている、と指摘している。アメリカの民主主義にfundamental doubtが投げかけられている。アメリカのデモクラシーが死にそうだ、と教授は嘆く。いつの間にか、民主主義までもが遺伝子組換えではないか、と。

「正義はあるのか」

「justice」といえば、サンデル教授。Market-driven-societyの行きすぎを、サンデル教授は嘆いている。サンデル教授の嫁さんはハルさんという。「春よ、こい」と日本では唄う。アメリカモデルとは市場主義である。ソ連が崩壊して、世界が市場主義一辺倒になった。市場主義がもたらす格差社会から生じる問題が広がっている。

「君たちだって、親が金持ちだったから、ハーバードに来られたのではないか」

と、サンデルは学生に問うている。純粋な能力勝負ではない、という。結局、金持ちが有利な世の中、どこが「justice」なのか、と問うている。ホームレスの老人が、「おれはどうしたらいいのか」、サンデル教授に質問してくれ、と言っていた。

「Winners take all。だから、全部、奪ってしまおう。俺のものにしよう」

一番強い者がぜんぶ奪っていい、というモデル。アメリカが主導した市場主義は、勝ち組に巨万の富をもたらす一方、負け組は失業し、人生が台無し。世界のLion’s share時代の幕開けからもう数十年。price of arroganceがじわじわきている。このモデルの世界では、人間の群れは、羊の群れよりみじめなもの、に映る。

「使い捨て時代、人間も使い捨て」

人間は経済の道具になった。「一番か、二番でなければダメ」だというロジックが、経営原則になり、リストラと事業買収がくりかえされ、会社さえ商品になった。米国の流れに、日本企業も右へ倣え、終身雇用制は崩壊した。リストラがひと段落つくと、次は派遣制度が施行された。

これによって、under class peopleが法的に成立した。いくら努力しても報いられない労働者の群れが生まれた。Price of politicsはいくらだろうか。 派遣社員が、正社員と同じような仕事をしても、いつでも切られる。

派遣社員は、経費削減に貢献するとともに、リストラのバッファーとしての役割を担っている。派遣会社の最大手は欧米企業だが、日本にも多くの派遣会社が誕生した。Price of inequalityは、いくらになるか。いまのところ派遣社員が集まって、会社を作るという話も聞かないし、いっせいに辞めるという話も聞かない。臨界点には達していない、ということか。Price of managementはいずれ高くつく、のではないかと思うのだが。