作成者別アーカイブ: 前野 拓道

Alternative View

いまのところ、人間の世は、never risk freeなのであろうが、それにしても、21世紀半ばには、安全にはかなりの金がかかり、そのうえ、相当なcrisis management能力が必要となるようだ。

私たちが直面している問題はいずれも、not simple but complexであるから、正解を導きだすのは困難であろう。知恵を結集する仕組みと、joint contributionが必要になることは、言うまでもないが、欧米でも,日本でも、知恵を構築するマネジメントの能力はダウン傾向にあるようだ。

問題はnational elitesの器量の限界にある。現代社会では、力と立場のある人間、つまりエリートたちが、社会の未来を決めている。力とは、軍事力であり、経済力であり、知力であるが、いいかえれば、暴力であり、金であり、学歴なのであるが、それが行き詰まりの理由でもあり、alternative viewが出せない原因である。

もっと、本質的な目線で、人間を認める姿勢、少なくとも、understand before judgmentの度量がなくてはならないのだが、エリートは頭が勝つので、judgment before well understandingになりがちだ。一流はこれがわかるのだが、エリートは必ずしも一流ではない。力や立場に依存しているうちは、真の一流とはいえまい。

立場にこだわるために生じるBiased perceptionを乗り越えて、upper classからunder classまでの意見を冷静に聞いて、major voicesだけに偏らずにabsence of minority voicesとなることのないように、しなくてはならない。

多くの人たちのless stressをこころがけ、more appropriateで、more productiveな社会をつくる。沈み行く船の中でのpointless augmentはやめて、沈没する地球というbottom lineにあわせた選択肢、alternative viewsを、big picture before details、大局観をもって探る。

21世紀半ばの危険水域超えに向けて、ともかくbetter starting right nowである。

Mental Shift

「mental defectからのリバイバル」

metal defectが起きて、能力が劣化している。他人思考に踊らされて、自分思考ができなくなった脳では、話にならない。他人のあとをついていくだけの、フォロワー思考では、新しい発想など、浮かぶはずもない。先頭を走る意思はあるか、先覚者のメンタルにシフトすることができるか。

「自分主義では、先は暗い」

自分以外の問題は、other people’s problemという思考の先には、何があるのか。他人に起きた不幸は、いずれ自分に降りかかるグローバル社会においては、other people’s problemは、まちがいなくmy problemになる。Local problemはいずれglobal problemとなる。my problemもyour problemも、our problemであり、their problemでもある。

「金持ちの保守性につきあっている場合ではない」

「温暖化なんて嘘だよ」と、大企業の幹部が平気で言っているが、無責任な老人のたわごとだ。確かに科学的データはあいまい、ではあるが、目の前で起きていることは事実だ。だいたい、金持ちは保守主義になるものと、相場が決まっている。このままの安住が一番であるという保守な頭になった人たちの、biasに乗っかるのは危険だ。

「若者が真面目には生きられない世界」

Tax heavenに莫大な金が流れ込み、金持ちや巨大企業が税金を払わないシステムがまかり通っている。金融世界のデタラメぶりはひどいことになり、すでに異次元空間である。9次元までの世界があるらしいから、もしかすると、そんなことは自然なのか。Anti-social-personalityの世界が、主人公になっている世界においては、こちらもそれ以上のメンタルシフトがないと、負ける。

「自分だけがよければいい、という論理は、いつまで通用するか」

拡大しつづけるEconomical hierarchyをどのようにシフトするか。世界的な格差社会の今日、Money rich peopleは守りに入った。しかし、自分だけのサバイバルはあり得ないことくらい、頭があればわかるだろう。Globalization on the wire時代、金持ちも貧乏人も、つながっている。つながりすぎてフラストレーションが高まっている。Money richもmoney poorもG線上にある。Poor knows rich、rich knows poor。このままではいずれ、Massive inequalityは危険水域に達するだろうから、richにもpoorにも、両者からのgreat shiftが求められる。

「考え過ぎ、というほど考えていないし、考えても無駄」

いま、近未来の人類の、生死の岐路に立っているのかもしれない、というセンスはあっても、Excessive worriesという言葉があっても、延長線の脳では、出てくる答えは、結局のところ知れている。金の周波数におかしくなった脳では、新しい発想など出てこないし、実は、脳も心も、おかしくなっていることに気付かない、ということのほうが怖い。

「自分を捨てられる人はいるか」

すべての行動には、行動基準が必要だが、新しいグローバルスタンダードの構築ができる人とは、どういう人か。それは、「自分を捨てられる」ほどに強い人間、であろうか。時代の変わり目には、そういう人物が出てくる。発想の大転換、知のバンジージャンプ。延長線をはるかに超える目線。Mental shiftした、多くの若者たちが、21世紀の新たな仕組み構築に努力を惜しまなくなる、そういう日が、果たして、30年以内に来るだろうか。

Morally Resonant Policy

「リーダーの再定義、新しい時代のリーダーシップの要件はなにか」

それは、「皆が共感できる」、を発信する人である、というのが、この言葉、Morally resonant policyである、と思う。だが、世界中の、皆が共感できるprinciplesの提案は、いまだに出てこない。ジャックアタリでさえ、economic uncertain。新しい仕組みの構築、21世紀の新ロジックが、いまだにみあたらない。誰も提案していない。対処法ばかりであって、希望が持てない。妥協策の連続で、つまらない。

「リズムや音程のレベルじゃなくて」

曲想そのものをかえる、そういう次元が求められている。アメリカモデルも、チャイナモデルも、力の論理、金儲けの周波数ばかり。インドモデルはその点、ちがう世界を現出できる可能性はある。釈迦が目指したのは平等社会であった。カーストシステムの否定。だが、数千年経ったいまもカースト制度の不平等のままである。インドが新たな曲想を奏でるには、ここらあたりが鍵になる、のかもしれない。

「アフリカの天下」

もしもアフリカが天下をとったら、どうなるか。世界中が踊りだすかも。踊る世の中がグローバルスタンダード。飛んだりはねたりするのが、うまい人が偉い、という新しい世界基準。New normalの世界が出現するかもしれない。

「グローバルな共感はどこから始まるのか」

宇宙時代になりつつあるが、cosmic spiritとは何か、いまだピンと来ない。グローバルワールドはいまだに、company benefitが先にあり、national benefitが先であり、global economic hierarchyが前提になっている。そういうレベルの思考から離れた暁に、世界が共鳴する曲が流れるのであろうか。

Re-shape the World

「どういうふうに、世の中をreshapeするのか」

第一に、食と住の安心を確保する。病気になったときに、安心して治療できることも大切だ。その前提にたって、金がない人でも、楽しめる空間、みんなが集まれる場所、これがあったほうがいい。真面目に働いて、それなりに潤いのある人生が歩めるのが良いだろう。そういうことを基本として、もう一度、必要額をはじきだし、ベーススタンダードを設定する。すべては、そこからのreshape the worldのスタートだ。

「まずは、local highで考えてみる」

街としての理想は、古代ローマに始まったシエナのような、イタリアの古い街にある。中心街は高台にあり、広場になっている。車はここまで入っては行けない。広場は石畳で感じがいい。周りにぐるっと、オープンカフェが軒を連ねて、人々がゆったり茶を飲んでいる。広場の奥には、高い塔がある。階段を上れば、街が一望できる。塔には鐘があるが、カメラをつければ、竜巻などの災害にも役立つかもしれない。街のreshapeには、まず街のサイズ論を再考する必要がある。

「人が集まる場所のreshape。人生には楽しみがないと」

イギリスのピカデリーには、ミュージカルやショーがたくさん公演されている。人気のあるものから、売れないもの、値段もぴんきりだが、だいたい安い。大きな会場もあれば、小さな小屋もある。ちょっと歩けば、オペラハウスもある。老人から若者まで、楽しめる。帰りには、みなパブに直行する。あのホーキング博士も、車椅子で楽しんでいた。こういう楽しみに、補助をしたり、減税したり、工夫している国は多い。

「もっと気楽な食文化があってもいい」

ドイツのミュンヘンのホフブロイハウスは広々としていて、ビール好きにはたまらない場所だ。ブラジルでも体育館のようなサイズの場所で、インフレのきつい時代なのに、「どうせ、貨幣の価値はすぐになくなるから、飲もう」と、みんなが陽気に飲んでいた。

香港では、朝のおかゆを外で食べる老人が多い。安くて旨い。台湾でもそうだが、家族のディナーはレストランで食べた方が、家でつくるより安くつく。親戚や友達もテーブルに加わり、わいわいたべている。あの食文化システムは、経済合理性とともに、人間交流にいい。

「公園はもっと気分のいいものに」

フランスの公園は犬のフンだらけで、いただけないが、イギリスの公園は、安心して、芝生に寝ころがれる。都会の中心にちかいリージェントパークでも大丈夫。むろん無料だ。イランでは、公園でも宮殿でも、水を引いて涼を楽しみ、花を愛でている。気分が清々する。老人が一日過ごしても、のんびりできるような場所がいい。

「車中心の社会のreshape。新しい発想はないものか」

シンガポールでは、渋滞緩和のために、center of cityに入る車を、奇数ナンバーと偶数ナンバーで、隔日に規制している。オランダでは、自転車専用ロードがあって、自転車通勤には減税措置がある。イギリスでも、フランスでも、街中にレンタル自転車が設置されて、しかもデザインがいい。スイスでは、電車に自転車をのせられるし、オーストリアの路面電車はゆっくり走って便利でクリーンだ。老人がゆっくり歩いて気持ちがいい道、子供が走っても自転車にぶつけられない道、もっと賢く優しい道であっていい。アメリカには、30キロ以上出せない街がある。

「もっと、パブリックをいいものに」

オーストラリアのゴルフ場は、夕方になると、近隣の人たちが家族で散歩している。イギリスでも、犬の散歩をしている。ゴルファーも心得たものだ。土地は、私有であっても、パブリック性をもっている。アブダビでは、世界のテクノロジーを集めて、完全ゼロエミッションのリサイクルシティの実験をしている。リニアモーター的なスピードだけが、時代ニーズではないのだ。

「医者と病院のreshapeは、既に世界的に始まっている」

キューバの医師は街に出て、カルテをつくり、早期発見、早期治療で効果を上げた。医師はストリートにいるのである。アフリカでは、医師不在の村に、医師が巡回して健康診断し、病院を紹介している。On the wireの時代、心音であれ、血液であれ、デジタル情報化されているのであるから、田舎町の診断情報を病院に飛ばすことができる。

アメリカでは、スマホを使い、個人の血圧や心拍のセンサーの情報化をすすめている。いちいち病院に行かなくても、安心が得られる。こうしたデジタル医療の仕組み構築に、いちばん力をいれているのが、ビルゲイツだ。アフリカなど、医師と病院の少ないエリアの状況に革命をもたらす、と主張している。

いまや、Reshape the every placeである。

Neighborhood Policy

世の中、声の大きいものが幅を利かせているが、幼稚園や小学校でもそうらしい。ベンツに乗った医師が、子供の「給食費を払わない」のに平然とし、子供同士のいじめはなくならず、教師の暴力もあとをたたない。すべて身近な世界、近隣社会での出来事である。先日、のんびりとした、田舎道を歩いていたら、古い家の窓から、「出て行け」と、老爺が老婆に怒鳴り、文句をあびせている声が聞こえてきた。

「300円レベルの、つまらない喧嘩ばかりしている。仲良くできないものかね」

アフリカ諸国は長い間、内紛を繰り返していた。イスラエルとパレスチナの関係は悪化している。アゼルバイジャンとアルメニアは、領地をめぐって殺伐としている。タジキスタンとウズベキスタンは水問題をめぐって、物流を止めるなど、経済や生活への影響は大きい。アフガニスタンとパキスタン、それにインドの国境はいつも紛糾している。

「仲の良かった時代もあっただろうに」

日本の周囲を眺めてみれば、北朝鮮の拉致に、竹島に、尖閣に、北方領土、近隣諸国との関係が難しい。Neighborhood policyがガタガタなのだ。どうしてこんなことになっているのだろうか。「賠償金はいらない、日本も大変だ」とした周恩来なら、どうするだろうか。日本に亡命した金大中なら、どうするだろうか。角栄や大平なら、どう考えるか。

「やられたら、やりかえす、倍返しだ、というレベルじゃあ、駄目なんじゃない」

当時の石原東京都知事が放った、「尖閣を買う」から始まり、当時の野田首相が「国が買う」となったが、ほとんどの国民が、「あの島、なんで個人が持っていたの」とか、「国が賃貸料を数千万円も払っていたのか」とか。「知らなかった」日本の情報に驚きの声が上がった。

「あとは紛糾ばかりで、なんか嫌な感じ」

「領土を守れない国なんて」とか、「国民を守れない国なんて」とか、「結局、魚と地下資源の問題なんじゃないの」とか、いろいろな反応であった。中国や韓国の政治家も反応して、同じレベルで威嚇しあっているだけ。話し合いもなくなり、国際会議でも挨拶さえしない。「ああ、韓流はどこへ」とおばさんたちが嘆いているのには、つきあえないが、つまらない平和でも、戦争なんかより、平和なほうがましだ。

「安心して、魚が獲れないよ。戦争だけはやめてほしい」

沖縄の漁民が率直に語っていた。現場の率直な声である。個々の利害の行き過ぎは、高い見地に立てる人物によって、調整されるべきであろう。隣近所の付き合いは、neighborhood policy次第で大きく変わるし、それを築く人物たちの器量によって、まったく違う近隣社会ができるのであろう。

Dollar on Human Life

「年収3000万円以下とは、結婚しないわ」

女性の結婚相手の基準は、好きとか嫌いとか、顔とかスタイル以上に、男の稼ぐ金額によるものになっている。男気があるとか、信念があるとか、そういうpriceless valueには価値がないらしい。だが、年収30億円の女性は、そんなことは言わない。年収は結婚基準にはならない。

「金で買えないものはない」

すべて金換算のレベルの発想が、あまりに幅を利かせてしまい、金では買えない価値がどこかに隠れてしまったようで、人生のうるおいを消し去っている。金の亡者たちは、マネーゲームによってeconomic crisisを引き起こし、人生を壊し、家族を離散させ、国家破綻をもたらしているが、そんなことはおかまいなしだ。だが、単に経済問題とは言えない、Economicalからemotionalな問題にtransformしてしまい、戦争にまでつながっている、という分析が、地政学によってなされている。

「当たり前、が難しい」

あたりまえに働いて、あたりまえに人生を味わうことさえ、難しい時代になっている。若者が真面目に働いて生きていくことは、もはや不可能かもしれない。やさしい中年にとっては、価格のつかない優しさのために、かえって、ストレス過多の社会になった。マネー的な価値に一辺倒に偏りすぎていることが原因だが、こうなったらば、Dollar on human lifeを引き上げるしか、手がないか。胸に「わたしのプライス、100億円」とでも書いて、貼っておく、というアホな作戦。

「それが嫌なら、どうするか」

ふざけるな、人間に値段をつけるな、というならば、もう、金の基準をいっさい止めるのも、一考だ。金持ちには、アイスクリームを売ってやらない、と決めるアイスクリーム屋。金持ちお断り、のタクシー運転手。金持ちは入らないでください、という映画館。そういうプライドに賭ける、というか、別の基準を設定するのが良いかもしれない、と思うが、どうだろうか。

Economic Hierarchy

 Economic hierarchyという言葉は、いまさらに、ことさらに、言わなくても、マルクス、ウェーバー、ミル、マズローが示したように、経済格差と社会格差と精神的格差の連動は、いわずもがな、である。だが、ふたたび、この言葉が話題になるほどに、世界の経済格差は広がっている。インターネットで世界の状況をちょっと調べてみれば、「あー、オレはだいたい、このくらいのクラスだな」と、どのクラスに所属しているか、すぐにわかる。つまり、経済社会における不平等は、グローバル社会では、matter of courseということなのだ。だから、少しでもピラミッドの上に行こうと、世界中の人が経済競争に汗を流している。

「どのあたりの格差まで、我慢できるか」

ルイ13世が呑めなくても、ヘネシーXOが呑めなくても、キリンラガーが呑めればいいじゃないか、と思う。セブンアイの発泡酒であっても文句はない。

自邸にゴルフ場がなくても、湖がなくても、鯉が泳ぐ池があれば、いいじゃないか、と思う。小さな水槽の中の金魚でも文句はない。

ポルシェが買えなくても、ベンツを持てなくても、プリウスを運転できればいいじゃないか、と思う。400ccくらいのバイクでも、コルナゴのチャリでもいいじゃないか、と思う。

つまり、それくらいの格差は許容範囲だ。およその人は、食べていければ満足だ、と思っている。

「50階の窓から眺めている人の神経って」

オリンピック開催に向けた住宅販売が盛んだか、高層マンションからの眺めは、すばらしい、らしい。物件を見に訪れた4人家族、「ここからなら、オリンピック会場にも近いし、お手頃」と、女子大生くらいの子が言っていた。そんなテレビ番組を見ていた、中華料理店の店主は、「こういう人は、仮設住宅の人の生活は、想像もできないだろう」と、ぶつぶつ言っていた。見える景色がちがうのである。

「理解できないのである」

first classが当たり前の人にとって、economy classのことは眼中にない、というより目に入らない。存在に気がつかない。数千万円の宝石を買う人にとっては、30万円の指輪はおもちゃである。5千ドルのスーツを仕立てる人にとっては、数万円のスーツは作業着にしか見えない。ハーバード大学からみれば、早稲田慶応は予備校くらいの感覚だろう。大企業の投資といえば、少なくても100億円だが、中小企業にとっては1億円レベルでも大騒ぎである。economic classごとに大騒ぎするレベルが違う。まるで異次元世界である。

「悪気はないのだが」

酒でも、肉でも、「おいしいね」の基準が違うのだ。ヘネシーXOが標準の人にとって、ワンカップ大関を大切にすする人の気持ちは理解できないし、ミシュラン3つ星以上が当たり前の人にとって、ファミレスの料理は・・・であろう。だから、ファミレスのバイト君が冷蔵庫に入った事件をみても、「ふーん」くらいのものである。それほどに経済格差によって、物事の価値基準がちがうので、自分の所属するクラス以外には関心が薄い、というより接点がない。そういうふうになっていくことで、Mind hierarchyの拡大していくことは、かなり危険なことではないだろうか。

Massive Job Loss

Massive flood、massive fireという環境被害の言葉もあるが、いま世界の関心事のひとつが、Massive job lossesという言葉である。世界は失業者で満ちあふれている。「家を建てたい人がたくさんいて、家を建てられる大工がたくさんいるのに、金がないから、両方とも動かない。こんなバカな話しがあるか」、と言って嘆いている人がいた。

「失業の苦しみは、失業した者にしか、わからない」

仕事熱心な人にとって、仕事が無くなるというのは、人生の喪失感につながる。自分の存在価値がゼロになったような気分になる。何をしていいのか、時間の流れが地獄のように長い。養うべき家族がいれば、なおさらに責任感に苛まれ、不甲斐ない自分に嫌気がさす。

「失業は、人生の危機なのである」

仕事が嫌いな人にとっては、「まあ、いいか」で、すみそうな話かもしれないが、それでも生活費が無くなれば、焦りがでてくる。もともと仕事熱心ではない人は、家族や友人から「経済力のないやつ」と、厳しい評価がくだされる。「他人評価などは気にせずに」、ブラジルのリオのカーニバルに踊りにでも、行ってしまうくらいなら、大物であるが、だいたいは貧すれば鈍する。そうなると、気楽な性格のいい加減な人でも、思い切りが悪くなって、飛べなくなる。

「失業は、犯罪ではないが、犯罪に近いような気分になる」

日本のニュースでは、なにか事件が起きると、かならず、名前と年齢と職業を報道する。70歳の老人であっても、「無職」なんていうふうに、報道される。無職であることが、犯罪のように、無職イコールダメなやつ、だから事件を起こすかのように、聞こえるくらいだ。まちがっても、「自由」とは言わない。「就職活動中」とも言わないし、「勉強中」とか「修行中」とも言わない。あれは、いったい誰が決めた放送ルールなのだろうか。

「グローバル社会では、出稼ぎが多い」

世はMassive job lossesの状況にある。地元を離れて、出稼ぎに出るのは、日本でも、中国でも同じだ。最近では、スペインやギリシャの若者は、景気のいい南米や豪州に出稼ぎに行っている。ソ連崩壊で生じた混乱時には、旧ソ連から独立した中央アジア諸国から、多くの若者が欧米露に出稼ぎに行ったが、いまでも続いている。結果、欧米露には多くのアルメニア人やアフガニスタン人あるいはタジキスタン人が住んでおり、数千万人レベルである。

「成功者もいれば、失敗者もいる」

シリコンバレーで成功したアルメニア人もいる。ドイツで暮らすアフガニスタン人もいる。かつてハリウッドの刑事ドラマでは、黒人やアジア人による事件がメインだったが、いまやロシア人やアルメニア人によるdigital mafia的なドラマに変わった。ボストンマラソンの爆破事件の犯人は、ダゲスタン出身の若者だった。祖国を去ることの負の側面だが、出稼ぎに疲れ、失敗した若者は、祖国に帰り、しばらく心をいやす。帰る祖国もなく、帰ったら追い打ちをかけられるような祖国では、羽を休めるところがない。Massive job lossesは、そのままmassive life lossesにつながってしまう。

「沖縄は、失業したら、どうするのか」

そういう質問を、沖縄県知事に話したら、「みんな、東京に行くさ」と言っていた。いっぺんに沖縄が好きになった。失業が気楽に考えられる?・・・場所柄もあるのだ。まあ、程度によるのであろうが、「なんくるなるさ」がいい。もっといえば、田舎の場合、東京モデルの成功事例ではなくて、田舎モデルの成功例もあってもいいのではないか。仕事はみんなでシェアしようよ、なんていうふうに。金儲けは、人生のすべてじゃないのだから。Massive job shareという発想があってもいい。

Living Standard

いつの間にか、日本人にとって、人生最大の買い物は住宅となり、30年ローンをくんで、50平米から100平米くらいのショボイ、猫の額の箱のような家に、一生が縛られてしまった。大の男が、小遣いさえ、たばことコーヒーに牛丼で、おしまいという毎日になってしまった。鬼平犯科帳の池波正太郎によれば、江戸時代は、家は賃貸が主流で、しかも安かったので、「男たちは、粋に生きていた」そうだ。

「人生の標準は、時代によって変わる」

日々、金儲けに勤しみ、月に一度は銀座で飲み、年に2回くらい海外旅行に出かけ、子供は慶応くらいに入れてやり、30万円くらいのスーツを仕立て、目黒か世田谷あたりに一軒家を構え、送り迎えの社有車か、ハイヤーで会社に向かう。会社に行けば、秘書がついて、時間通りにパーティや会議に出席していれば、年間3千万円くらいが口座に振り込まれる。こんな感じが、大手企業の役員クラスの人たちの人生のスタンダードであろうか。

「成金スタンダードにアップグレード」

少々のお金を持った人は、ポルシェを何台もガレージに並べる。いま、ポルシェが一番売れる国は中国だ。高層マンションの40階あたりの部屋をいくつか買って、きれいな女性にプレゼントしている。宮崎牛や飛騨牛を取り寄せて、ドンペリをがぶ飲みするパーティを開く。

もう少し、金持ちになれば、欧米や豪州あたりに家を買い、夏は涼しいカナダとか、冬は暖かいフロリダとか、半年ごとに移動する人生になる。さらに金が入れば、ヨットをマルセーユに浮かべ、自家用ジェットで移動し、自分の誕生日には、一流シェフや歌手を呼び、ときにはサーカスも読んで、皆にごちそうする。成金人生のスタンダードパターンである。

「事業観のスタンダードをアップグレードする」

もう一段、ランクがあがると、自分でワイナリーを所有し、ベトナムあたりでコーヒーを栽培する。100グラムあたり300ドルくらいの日本茶は、自分の茶畑から収穫する。そういう人は、大手企業の社長を目指す、というような、雇用の論理の範疇に人生を置かない。いくつもの企業のオーナーとなって、しかもビジネスは信頼できる人を使っている。

「社会観のスタンダードをアップグレードする人」

金は十分にある人で、金儲けを考えなくなると、もっぱら、美を愛し、美術館を立ち上げ、音楽や芸術に親しみ、音楽祭や映画祭を主催して、監督や俳優を呼んで、たくさんの賞をあげている。さらには、スポーツを振興し、大会を開き、健康を増進し、交通遺児を助け、難民にテントを送り、自然を保護し、環境を守り、人々のこころを涵養する。これくらいになれば、人間界としては、上等のランクに入るのだろう。

「さらに、人生観のスタンダードをアップグレード」

自分を捨ててかかることに平気になり、というより、それが自然のふるまいになり、西に悩める人がいれば、助けてやり、東に困っている人がいれば、相談にのってやり、紛争している国があれば、平和に向けた交渉を行い、病気の人たちには、医師団を派遣し、貧しい人たちの中に入り、食事をともにし、歌を歌い、明日への希望をつくる。世界的な難問に対しては、世界の知を結集し、協力する体制を築き、成功の暁には、智者を顕彰し、みずからは裏方に徹する。人は、こういう人を聖人とも、マハトマとも、仏陀ともいう。宮沢賢治がそう言っている。

「普通の人は、なかなかこうはいかない」

せめて、つまらない喧嘩はせず、席は年寄りに譲り、ポイ捨てをやめてゴミを拾い、エネルギーや水を大切に使い、小さい家で、つつましく豆腐を食べて「うまい、うまい」と笑顔で応じ、缶ビールひとつでもつけば「最高だ」と大笑いし、良いことには賛同して協力し、悪いことには反対し、穏やかに、それなりの人生を歩みつつ、グローバルな社会の安寧を心がけて生きる。

「こういう人を賢人というのだろう」

実際の世の中のスタンダードは、そうはいかない。他人と競争して、人を押しのけ、自分だけが良い思いをしようと、必死の形相になり、少しでも贅沢しようとがんばり、他人の上に立とうと、ケチな考えにとらわれ、相続では兄弟姉妹で大喧嘩し、弱者には強く出て、強者には媚びる、というのが現実には多数派であろう。そういうわけで、結局のところ、全体のliving standardはdownwards、落ちていくばかりである。少しはliving standardを変えないと、global sustainabilityが担保できない時代なのであるが。

「たとえば、老人スタンダードの変更」

「歳をとったら、大きな家はいらないよ」、老人がいうには、家は二間もあれば十分で、いつでも入れる風呂、檜とまではいかなくてもいいから、気分のいい風呂があれば十分だ、という。あとは、あまりに暇を持て余すので、自家菜園ができる少々の畑に、花の咲く公園があれば、雑草取りやゴミ掃除などを、自発的にやると言っていた。普通の人は、それほど欲はかかないものだ。

「田舎のスタンダードをどうするか」

東北方面に行くと、プチ東京スタンダードモードの風景が目に付く。駅前も、道路沿いも、千葉や埼玉スタンダードになっている。同じようなチェーン店がずらりと並んでいる。同じサービスに安心する反面、「またかよ」とがっかりする。大阪スタンダードや京都スタンダード、さらに神戸スタンダードや松山スタンダードだっていいじゃないか。別にどこかのまねをしなくてもいい。ローカルスタンダードを打ち立てればいいのだが、経済性の問題があるのか。

「ブラジルスタンダードもいいじゃない」

だいたい田舎は、金のボリュームは小さく、金の回転数はスローなのだから、東京のような土地成金的なモデルは適していないし、ストレスが大きい。ブラジルのように、金はなくても、唄って踊って、飲んで騒いでいるのがいい、かもしれない。100万円くらい貯金して、あとは全部使ってしまうローカルスタンダードがあれば、「宵越しの銭はもたねえ」という江戸っ子のようで、みな横にならえ、だから気が楽だ。

「牛とワインがただみたいな、国もある」

数千パーセントのインフレのときにでも、南米では、牛肉とワインは好きなだけ、味わえた。人間の数より牛の数を多い上に、水よりワインのほうが安いのだ。食と住が確保されていれば、人生は安心だ。

数年間働けば、家が買える国もあれば、日本のように30年も働かないと、住宅ローンが返せないという国もある。住宅の寿命は100年間だ、というのが当たり前の欧米に対して、日本の場合は30年である。30年というのは、終身雇用もなく、高齢化社会にあっては、中途半端である。こういう具合に、スタンダードは種類によっても違うのだ。

「どういうスタンダードにするか」

老人にあわせれば、朝型になったり、スピードを落としたり、スタンダードは変わる。実際に、米国にはそういう、車の時速制限の街がある。北欧のように、高い税金の反面、手厚い社会保障とサポートをする国のスタンダードもあれば、シリコンバレーのように、起業することがスタンダードになるエリアもある。アイルランドでは、会社に通うのにヒッチハイクが当たり前、というスタンダードもあった。世界をみれば、他人の物を分かち合うというセンスで、泥棒がスタンダードだったり、酒を飲まないのがスタンダードであったり、競争がスタンダードもあれば、助け合うのが当たり前のスタンダードなど、様々なスタンダードがある。

「大切にすべき、ローカルスタンダードは何か」

food standard、housing standard・・・、江戸時代のshoes standardは、田舎では裸足だった。数年前まで、夏でもネクタイ着用がスタンダードだったが、いまはノーネクのクールビズスタイルがスタンダードになった。いいことであるが、問題はいちいち、他人が決めないと、スタンダードにならないようでは、これからのリスク増大時代には追いつかない、ということだ。Localにはlocalの特性があるのだから、東西南北、山と海、flexibility of standardを求める時代になっている。

Man-Made-Pollution

日本には、水俣病やイタイイタイ病という事例があった。いつの世も、被害者は悲惨である。身体が不自由になった子供を抱きしめて、涙を流して自分を責める母親の姿が、そこにはあった。行政も、学者も、経済優先で企業側の論理に立ち、住民たちの健康被害を助長してしまった。

「論理はいつも、強者がつくる」

市民の側に立った弁護士の、中坊公平氏は、当時、貧しい市民の側に立つことは勇気のいることであった、と語っていた。彼の心を動かしたのは、企業や国を責めずに、自分を責める母親の姿であり、赤児に政治の論理が関係あるか、と言い放った父親の励ましであった。

「事実は改ざんされ、情報は隠される」

欧米でも同じ流れであった。ルイジアナの自然と水は石油化学品で汚れ、牛や人間の健康も相当ひどいものになった。事件は、女性の身体の変調から始まった。Silent Spring、沈黙の春。春が来ない。一人の女性が立ち上がり、多くの母親が立ち上がった。それでも、企業や行政は、被害者の声を無視した。

「失くしたものは取り戻すのは大変だ」

昔は、東京の神田川でも、泳げたほど、きれいな水であった、という。「冷たい川の水は、夏になると、子供たちが飛び込んだものだ」と。いつの間にか、夏になると、光化学スモッグ警報が流れるようになった。「ああ、またか」と、何も感じられなくなるほど、公害は、当たり前になった。

「春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が・・・」という歌を小学校で習う頃には、汚くて、臭い、隅田川になってしまい、きれいな川のせせらぎは消えた。

「おかしい、と思うこころが死んでいった」

パブリックは、自分から始まるものだ、ということを忘れがちである。中国人の多くは、「自分がいい加減だから、他人もいい加減だろうと、思っている」、と中国人の知人が言っていた。環境問題の背景にある精神風土だ。

日本でも、世界でも、自分さえよければいい、という周波数は、いまや世界共通。パブリックは自分のことではない、というコモンズの悲劇とともに、私有化によるマイナス面のtragedy of anti-commonsもある。

「グローバル社会では、他国の公害も、他人事ではない」

たとえば、PM2.5の問題は、「中国の国内問題だ」、というのは、すこしばかり虫が良すぎる。確かに中国の責任は重い。しかし、中国が世界の工場になっている現状を肯定している以上、日欧米も含めたglobal issueであり、public responsibilityなのだ、というほうが、fair to bothではないのか、fair to globalではないのか、というfair tradeの概念もある。PM2.5が赤子の肺をおかすことが証明された。