Living Standard

いつの間にか、日本人にとって、人生最大の買い物は住宅となり、30年ローンをくんで、50平米から100平米くらいのショボイ、猫の額の箱のような家に、一生が縛られてしまった。大の男が、小遣いさえ、たばことコーヒーに牛丼で、おしまいという毎日になってしまった。鬼平犯科帳の池波正太郎によれば、江戸時代は、家は賃貸が主流で、しかも安かったので、「男たちは、粋に生きていた」そうだ。

「人生の標準は、時代によって変わる」

日々、金儲けに勤しみ、月に一度は銀座で飲み、年に2回くらい海外旅行に出かけ、子供は慶応くらいに入れてやり、30万円くらいのスーツを仕立て、目黒か世田谷あたりに一軒家を構え、送り迎えの社有車か、ハイヤーで会社に向かう。会社に行けば、秘書がついて、時間通りにパーティや会議に出席していれば、年間3千万円くらいが口座に振り込まれる。こんな感じが、大手企業の役員クラスの人たちの人生のスタンダードであろうか。

「成金スタンダードにアップグレード」

少々のお金を持った人は、ポルシェを何台もガレージに並べる。いま、ポルシェが一番売れる国は中国だ。高層マンションの40階あたりの部屋をいくつか買って、きれいな女性にプレゼントしている。宮崎牛や飛騨牛を取り寄せて、ドンペリをがぶ飲みするパーティを開く。

もう少し、金持ちになれば、欧米や豪州あたりに家を買い、夏は涼しいカナダとか、冬は暖かいフロリダとか、半年ごとに移動する人生になる。さらに金が入れば、ヨットをマルセーユに浮かべ、自家用ジェットで移動し、自分の誕生日には、一流シェフや歌手を呼び、ときにはサーカスも読んで、皆にごちそうする。成金人生のスタンダードパターンである。

「事業観のスタンダードをアップグレードする」

もう一段、ランクがあがると、自分でワイナリーを所有し、ベトナムあたりでコーヒーを栽培する。100グラムあたり300ドルくらいの日本茶は、自分の茶畑から収穫する。そういう人は、大手企業の社長を目指す、というような、雇用の論理の範疇に人生を置かない。いくつもの企業のオーナーとなって、しかもビジネスは信頼できる人を使っている。

「社会観のスタンダードをアップグレードする人」

金は十分にある人で、金儲けを考えなくなると、もっぱら、美を愛し、美術館を立ち上げ、音楽や芸術に親しみ、音楽祭や映画祭を主催して、監督や俳優を呼んで、たくさんの賞をあげている。さらには、スポーツを振興し、大会を開き、健康を増進し、交通遺児を助け、難民にテントを送り、自然を保護し、環境を守り、人々のこころを涵養する。これくらいになれば、人間界としては、上等のランクに入るのだろう。

「さらに、人生観のスタンダードをアップグレード」

自分を捨ててかかることに平気になり、というより、それが自然のふるまいになり、西に悩める人がいれば、助けてやり、東に困っている人がいれば、相談にのってやり、紛争している国があれば、平和に向けた交渉を行い、病気の人たちには、医師団を派遣し、貧しい人たちの中に入り、食事をともにし、歌を歌い、明日への希望をつくる。世界的な難問に対しては、世界の知を結集し、協力する体制を築き、成功の暁には、智者を顕彰し、みずからは裏方に徹する。人は、こういう人を聖人とも、マハトマとも、仏陀ともいう。宮沢賢治がそう言っている。

「普通の人は、なかなかこうはいかない」

せめて、つまらない喧嘩はせず、席は年寄りに譲り、ポイ捨てをやめてゴミを拾い、エネルギーや水を大切に使い、小さい家で、つつましく豆腐を食べて「うまい、うまい」と笑顔で応じ、缶ビールひとつでもつけば「最高だ」と大笑いし、良いことには賛同して協力し、悪いことには反対し、穏やかに、それなりの人生を歩みつつ、グローバルな社会の安寧を心がけて生きる。

「こういう人を賢人というのだろう」

実際の世の中のスタンダードは、そうはいかない。他人と競争して、人を押しのけ、自分だけが良い思いをしようと、必死の形相になり、少しでも贅沢しようとがんばり、他人の上に立とうと、ケチな考えにとらわれ、相続では兄弟姉妹で大喧嘩し、弱者には強く出て、強者には媚びる、というのが現実には多数派であろう。そういうわけで、結局のところ、全体のliving standardはdownwards、落ちていくばかりである。少しはliving standardを変えないと、global sustainabilityが担保できない時代なのであるが。

「たとえば、老人スタンダードの変更」

「歳をとったら、大きな家はいらないよ」、老人がいうには、家は二間もあれば十分で、いつでも入れる風呂、檜とまではいかなくてもいいから、気分のいい風呂があれば十分だ、という。あとは、あまりに暇を持て余すので、自家菜園ができる少々の畑に、花の咲く公園があれば、雑草取りやゴミ掃除などを、自発的にやると言っていた。普通の人は、それほど欲はかかないものだ。

「田舎のスタンダードをどうするか」

東北方面に行くと、プチ東京スタンダードモードの風景が目に付く。駅前も、道路沿いも、千葉や埼玉スタンダードになっている。同じようなチェーン店がずらりと並んでいる。同じサービスに安心する反面、「またかよ」とがっかりする。大阪スタンダードや京都スタンダード、さらに神戸スタンダードや松山スタンダードだっていいじゃないか。別にどこかのまねをしなくてもいい。ローカルスタンダードを打ち立てればいいのだが、経済性の問題があるのか。

「ブラジルスタンダードもいいじゃない」

だいたい田舎は、金のボリュームは小さく、金の回転数はスローなのだから、東京のような土地成金的なモデルは適していないし、ストレスが大きい。ブラジルのように、金はなくても、唄って踊って、飲んで騒いでいるのがいい、かもしれない。100万円くらい貯金して、あとは全部使ってしまうローカルスタンダードがあれば、「宵越しの銭はもたねえ」という江戸っ子のようで、みな横にならえ、だから気が楽だ。

「牛とワインがただみたいな、国もある」

数千パーセントのインフレのときにでも、南米では、牛肉とワインは好きなだけ、味わえた。人間の数より牛の数を多い上に、水よりワインのほうが安いのだ。食と住が確保されていれば、人生は安心だ。

数年間働けば、家が買える国もあれば、日本のように30年も働かないと、住宅ローンが返せないという国もある。住宅の寿命は100年間だ、というのが当たり前の欧米に対して、日本の場合は30年である。30年というのは、終身雇用もなく、高齢化社会にあっては、中途半端である。こういう具合に、スタンダードは種類によっても違うのだ。

「どういうスタンダードにするか」

老人にあわせれば、朝型になったり、スピードを落としたり、スタンダードは変わる。実際に、米国にはそういう、車の時速制限の街がある。北欧のように、高い税金の反面、手厚い社会保障とサポートをする国のスタンダードもあれば、シリコンバレーのように、起業することがスタンダードになるエリアもある。アイルランドでは、会社に通うのにヒッチハイクが当たり前、というスタンダードもあった。世界をみれば、他人の物を分かち合うというセンスで、泥棒がスタンダードだったり、酒を飲まないのがスタンダードであったり、競争がスタンダードもあれば、助け合うのが当たり前のスタンダードなど、様々なスタンダードがある。

「大切にすべき、ローカルスタンダードは何か」

food standard、housing standard・・・、江戸時代のshoes standardは、田舎では裸足だった。数年前まで、夏でもネクタイ着用がスタンダードだったが、いまはノーネクのクールビズスタイルがスタンダードになった。いいことであるが、問題はいちいち、他人が決めないと、スタンダードにならないようでは、これからのリスク増大時代には追いつかない、ということだ。Localにはlocalの特性があるのだから、東西南北、山と海、flexibility of standardを求める時代になっている。